日本人は輸入品こそありがたがる

日本人は古代から輸入品をありがたがる傾向にあります。銅鏡、銅鐸や鉄器から文字、はては宗教にいたるまで輸入したものです。そのうえ、使いやすいように手を加えたり、解釈を変えたりとモディファイして日本に根付かせています。その一方で、オリジナルを日本発として世界に広めたもの皆無ではないでしょうか。最近、右翼や保守を自認する人が、メディア、書籍、SNS上で大量に発生しています。実はこの、右だの護国だのという概念も紛れもない輸入品です。遠い昔、遣唐使を国家として派遣した頃の大和朝廷は西日本の一大勢力に過ぎず、当時坂上田村麻呂による東北地方の土着勢力征伐まで至っていないという事実に鑑みれば、唐にハッタリをかましたにすぎず、一般の民にとっての国という意識は、自身が住んでいる土地の範囲を出ることはなかったと思われます。朝鮮に出兵した豊臣政権期においてさえ、出兵した大名及びその家臣にとっての国は、御家(大名家)の支配する領地でしかなかったし、その後を継いだ家康にしてもそうであったであろうと思います。幕藩体制の300年をお家の安泰のみに費やした西国諸藩は、欧米の進んだ文明利器に触れて初めて強大な力の差を思いしらされ、恐怖と共に国家を意識させられたのである。つまり、欧米の強大な武力や優れた技術と共に国家の概念を輸入したのです。外国の進歩性に畏怖し劣等感を抱くと同時に国家を意識するということは、宮台真司先生が定義する「ウヨ豚」の感情や精神性にも通じていると思います。話が逸れてしまいましたが、結局のところ、自前と思っていた国粋主義でさえ、外国の圧力で生じた恐怖の上に、輸入された国家意識を被せただけのイデオロギーに過ぎないのです。日本には悪霊でさえ神として祀る風習があります。これは、手に負えない強者には抗わず、むしろ崇め奉ってご機嫌をとっておけば脅かされることがなく平穏が維持される、という意識から生じているように思います。やくざモノの映画やドラマが持て囃されたり、ひいては国家体制の維持で米国に従順なのも、このことが起因しているような気がしてなりません。今日はアメリカのアカデミー賞授賞式です。日本から海外に活躍の場を定めたヒロ・カズさんが2度目のメイク・ヘアスタイリング賞を受賞しました。日本人は海外で評価された日本人や日本の文物も無条件にありがたがります。逆輸入も輸入品なのです。私たちは自国では価値を見出せず、稀有な才能も伸ばしてやれない社会なのです。