今は敵国の無い第三次世界大戦状態

新型コロナウイルスによる官製恐慌が着実に、しかも、特定産業を狙い撃ちしているが如くダメージを与えています。ついこの間までは世界に向けた観光立国などといっていた観光業界が餌食となりました。次がリモートワークによる移動の制限により、車の需要が急速に減少することが予想されます。国民の多くが仕事を失い、国の税収も大幅に減少し、借金の返済に充てるのを優先して、社会インフラ整備費が行き渡らなくなります。そしてとうとう非常事態宣言を出すまでの大事になってきました。これはすべからく、欧州のコロナウイルスヒステリーを間に受けた日本メディアの報道姿勢に起因します。日本の放送メディアは、放送法によって国の顔色を窺いながらの放送内容に偏る傾向があります。しかし、放送すべき公正な内容という概念を基本的に醸成させていないため、他者の放送内容に追随して、自社だけ逸脱しないように細心の注意を払います。その為、自社のスタッフによる根気強い取材ネタはほぼ皆無で、主要ニュースの全てを通信社から買っているのが実態です。そうなると、各社が力を入れる朝と夜のニュースショーに内容の相違はほぼ無くなり、視聴率を取れる人気女性フリーアナを据えるということになるのです。そこで、生活しているなかでTVからの情報にほぼ依存している国民の殆どは、どこの放送局を好んで見ていようと同じ内容で同じ印象を抱く思考プロセスを持ちがちになります。さらに、そこに登場するコメンテーターも各局使い回しなので、同じコメントの垂流しを聞かされていくことになります。テレビの情報は伝達が早いというメリットはありますが、視聴者を思考停止にするという傾向も一方にはあります。つまり、どの局を見ようとも視聴者は同じ印象を抱く傾向が高くなり、ほぼ洗脳されていることになります。今回のコロナウイルスヒステリーはメディアが扇動し、洗脳された国民のヒステリーに押された政府が、支持者にソッポを向かれまいと非常事態宣言を発令するという単なるパフォーマンスとしての意味合いしかありません。それにも関わらず、生活基盤を潰された国民は無用の借金を負わされ、見通しの全く立たない景気浮揚を待たずして生命の危機に晒されていくのです。

学ばない国ニッポン

毎日毎日、新型コロナウイルスに関するメディア報道はエスカレートしていますが、これは非常にまずい状況だと思います。メディアというのは決してメジャーな世相や世論を報じるものではなく、視聴者の耳目を集めやすいセンセーショナルなトピックをエモーショナルに報じるのが常です。最近の報道で最もタチの悪いのが、日毎に増える感染者数報道です。毎日感染者数が増える理由はいくつか考えられ、1つは検査員の増員で、もう1つは被験対象者を世論の批判を受けて増やしたこと。あとは、検査員が検査に慣れてきて処理が早くなったことです。このような理由を明かすことなく感染者増加を鵜呑みにした視聴者は、余りにも経済的被害の甚大な緊急事態宣言を政府に強く求めることになります。これは非常に危険なことで、知らされたことが全てと思考放棄して、単なる雰囲気に流されていくのは必至です。過去の戦争開始時同様、踏み出してしまったら最後、手の施しようもない災禍に自らすすんで、確固たる思索的根拠も意思もないまま破滅の道を突き進んでいるのが今の日本です。今回もまた、戦時同様、緊急事態宣言で死んで行くのは若者や現役世代です。

新型コロナウイルスを客観的に捉える必要性

新型コロナウイルスについて様々な情報があふれていますので、ここでは分かりきっている事実のみ記したいと思います。まず、新型コロナウイルスは過去に発生したSARSウイルスによる近いウイルスということです。このSARSウイルスも感染して悪化した場合、死亡するまでのスピードが速いタイプでしたが、現在のようなグローバルなヒステリー状態には至りませんでした。これは、欧米人での感染死亡者数が殆どいなかったことにより、アジアの一部地域のローカルな風邪というふうに受け止められたことによります。当時、私自身も仕事上、韓国や中国の方と接触することがありましたので、保健所に電話確認したりしました。その際の保健所の助言は、韓国や中国の渡航者が来日後2週間の観察期間を置いて発症してなければ心配ないということでした。今回の新型と同様の措置です。風邪というのはコロナウイルス感染によるところが多いのですが、既知の風邪に効く薬や予防ワクチンは存在しません。風邪に対しては症状に対する対処療法しかなく、悪化して無くなるのは肺炎まで進行してからが最も多く、世代は幼児と高齢者に多い傾向があります。つまり、悪化してからの対処しか考慮していないのがこれまでの医療対応です。但し、肺炎による死亡率の高い世代には肺炎球菌ワクチンなどが予防措置として取られる程度です。しかし、今回の新型には特別にワクチンの開発製造がなされる予定ですが、これまでの慣例からすると異常です。メディアは毎年発生する風邪やインフルエンザによる死亡率との比較を公表していません。しかし、高齢者が肺炎を患った場合は、まず間違いなく助からないのが常識ですが、今回の新型ではあたかも特殊なことのように報道されています。高齢者の死亡リスクの高いものとして誤嚥性肺炎があげられることは広く知られていますが、注意すべきは肺炎まで進行した場合なのです。肺炎はウイルスが直接肺に入って増殖した結果引き起こされますが、通常は喉の繊毛運動によって胃に送られて、強い酸によって滅菌されます。喉の繊毛運動は常に喉が唾液で潤っていることが必要なのですが、喉が乾燥していると繊毛運動によってウイルスが胃に送られず肺に侵入し易くなってしまいます。ウイルスが喉に取り付いて感染するまでに15分程要すると言われます。喉が乾燥するような時は、チビチビと飲み物を飲んだり飴などを舐めたりすることが予防に効果があります。マスクの効用は、ウイルスを防ぐというより、マスクによって留められた呼気に含まれる水分を再吸気して喉を乾燥から防ぐことにあります。マスクの買占めに走る人が多い現状ですが、N95のマスクでウイルスが遮られるかというとそうではありません。今になってマスクの効用を否定していた米国が一転して肯定し始めた背景にあるのは、単にマスク着用が早くに広まっていた日本などが、欧米に比べ感染率や死亡率が少ないということのみによるものです。しかし、日本は他国に比べPCR検査数が少ないという事実があります。つまり、潜在的患者数が顕在化していないだけなのです。

最善のコロナウイルス対策とは?

これまでコロナウイルスにおけるマスクの効用をあまり評価していなかった米国でしたが、ここにきて防疫対策のチーム長やCDCが感染を遅らせる効果があると評価し始めました。これは、日本などのアジア諸国での感染死者数が比較的少ない事実に着目した結果のようです。しかし、日本についていえば少し怪しいところも見受けられます。まず、PCR検査を受けるためには病院や保健所のフィルタリングを通過する必要がありますが、呼吸困難や意識不明などの重症化まで至らない場合は、病院と保健所の間でキャッチボールされ続けてPCR検査希望者が諦めるまで待つようです。つまり、感染していても重症化したり、肺炎で死亡しない限りは感染者数として顕在化しないというカラクリがあります。これは、国民や世界に対する情報操作の上で、日本が非常にしたたかに立ち回っていることを示しています。言い換えれば、ウイルスによるパンデミック回避には情報操作が最良の手法であるということです。

「春の祭典」が聞こえてくるこの季節

 

春の祭典」が流れる今現在の日本

巷はコロナウイルスパニックにより、日本を支える現役世代の経済活動が制限されています。当然ながら経済活動が制限されれば収入は減ります。収入が減っていけば生きていくのが困難になります。これはすべからく、日本のために尽くしたリタイア世代の命を守るために政府の老人政治家が促している方策です。そう思うとストラヴィンスキーの「春の祭典」が聞こえてくるような気がいたします。ストラヴィンスキーはこの曲を制作するきっかけとして「長老たちが"若い娘が死ぬまで踊る様子"を見守っている幻影」を見たと言っています。まさに今の日本にぴったりですね。

東京2020オリンピック延期で明らかに!

 

東京オリンピックの延期が決定しました。延期に先立って米国のトランプ大統領が「オリンピックは延期したほうがいいんじゃね?」みたいなことを言ってから間髪入れずに安倍総理からの延期発表となりました。やっぱりそうだったんですね。日本の政治を動かしたいのなら、アメリカを動かすのが手っ取り早いんですね。野党は国会や選挙でムダ働きするよりも、米国のプロ・ロビイストに依頼してロビイングしたほうが効果的なのかもしれませんね。トランプ大統領は外国に関するロビー活動を禁止しましたが、日本は間違いなく米国の国内ですからね。

菊の国「日本」

 

先日、トイレットペーパーを買い占めている老人がいたというツイートを見た。ドラッグストアなどをハシゴして、あるもの全部買い占めてしまう上、家に置き場がなくなったので増設するつもりなどとも周囲にいっているらしい。このご老人、認知能力に支障をきたしているのか、はたまた注目されたい寂しがり屋の独り暮らしなのか。この老人に限らず日本人は、どうもパニクるとトイレットペーパーに危機意識を向けるという人が少なくないらしい。昔のオイルショック時にもこの症状がでたのだが、現代はシャワー洗浄機能付トイレの普及によって、指で押さえた紙で肛門に触れなくても、或いは紙がなかったとしても、温風で乾燥までしてくれるものがあるにも関わらずである。肛門を機械なんぞに任せるなど言語道断というわけである。今は放送されていないが、「水戸黄門」という時代劇が長きにわたって愛されている時期があった。話の内容は勧善懲悪のワンパターン時代劇である。この「水戸こうもん」は水戸光圀という徳川幕府の隠居した副将軍で「水戸の御老公」とも呼ばれている。この「ごろうこう」は家来を連れて全国行脚して悪徳為政者を懲らしめるのである。「水戸肛門」といい「水戸の後漏口」といい、あてる文字によっては言わずもがなである。日本には国花というものは正式には定められていない。しかし、桜や菊は日本の象徴のような花として格別である。この"かくべつの花”である「菊」を冠した名称に「菊座」というものがある。これは肛門の隠語でもある。私はかまって欲しい老人を指して「オカマちゃん」と密かに胸の内で呼んでいる。最初に紹介したトイレットペーパー買占め老人などはまさに「オカマちゃん」であると同時に、菊座を労わってやまない尻拭いの人である。あと、韓国民や日本国民の一部にも評判の悪い旭日旗。中心の日の丸から赤い放射線が走るあの国旗である。過去の軍旗を思い起こすということで、平凡な日本人の私にとっても嫌な印象しかない。しかし、この旭日旗。中心の赤い丸から放射する有り様は、中心の穴から伸びるシワシワを描いたような"ある部位"を想起させずにはおかない。
日本人は「あの部位」に無意識で、潜在的な、無自覚の執着、愛着があるらしい、とふと思った。そういえば、宮台真司先生曰く、日本には「ケツ舐め」野郎が多いとのことでした。

Twitter上のナニ者が甚だ臭いことチンカスやオリモノの如し。

日本人は人前での発言が苦手である。自分の発言が間違っていないかどうかを気にするあまり、分からないまま折角の機会をやり過ごしてしまうのである。つまり、自分の疑問を解消させる欲求より、私は全てお見通しといった見栄を張ることに意識が傾く。このような人は自分の無知をその都度質問や疑問として顕在化させて知識で埋めていく習慣を持っていないため、大抵がアタマの空っぽな状態のまま今に至った人である。ところが、Twitterなどの匿名で発言できるプラットフォームにおいては、アタマの空っぽな人が大手を振って跋扈している状態になっている。これは、幅広い年代層でみられる傾向で、昔から空っぽアタマを見透かされないように努めてきた人が多かったことを示しているうえに、間違いなく子供世代の若年層にも伝承されている国民性である。Twitter上では自らのプロフィールをキチンと開示したうえで、ご自身の信ずるところに従って臆することなく発言を展開している方々も沢山おられる。このような方々が発言に至るまでには、膨大な知識量や思索プロセスの基礎に成り立った論理構成が足下に存在するのだが、知識に乏しく、思索が浅く、感情に流されやすい人は、そのような事情を想像だにできない。只々、誰かに認めてもらいたいという欲求に従って、絡んだり批判したりを繰り返し、イイネが得られるとカタルシスを憶えてしまう。もはやこうなると、脳科学でいうところのドーパミン報酬系が出来上がってしまうので、絡みや批判が常態化していくのである。言い換えれば麻薬依存性と同等の、ネットにおける中毒症状である。このような中毒者の意見や批判や疑問は、責任を持って発言している健常者が思考プロセスの初歩的な途上で既に解決済みであることに思いが至らない。これは、同時に、相手の考えを理解しようとするコミュニケーション能力や思いやりや想像力の欠如にほかならない。このような人は、あたかもオナニーに耽ることを止められない猿の如し「ナニ者」かである。まれに、ナニ者は自身が絡んだ相手にリプされることがあるが、そのようなときは議論を展開する能力はもちろん皆無であるため、自身が年長であることや健常者と異なる立場であるといった意味のないマウンティングやかわしで逃げに出るのが常套である。まったく、これらTwitterのチンカスやらオリモノどもの醜いことこのうえもない。お猿さん、ゴメンね。

 

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Twitter内の文盲

 

最近、読書習慣を身につけなかった人の読解力の無さが明らかになりました。読解力の無さに加え、文章を最後まで読み進める忍耐力や持久力も欠如していることが要因ではないかと個人的には思っています。ただ最近は、知識はその都度クラウドから引っ張り出せばいいじゃないかということから、これまで先人が積み重ねてきた英知をインプットすることは野暮というような雰囲気を感じます。勿論、読書などは個人的な嗜みとして人に勧めても仕方ないのですが、良書を読めば読むほど自分や周囲の無知さと思考を掘り下げることの重要度を感じさせられるのです。ではどのような本が良書なのか。取っ掛かりやすさや比較的読み易いという観点でみれば、著名な大学教授が書かれた著書がいいと思います。理由は、大学教授は教授職に就く前から膨大な専門書や学術書や論文を読み込んで理解して整理しているからです。物事を正しく論理的に理解するためとはいえ、過去から議論され積み重ねられ、塗り替えられた論説を全て読みこなすことは普通の生活者では不可能です。せいぜい、たまたま手に取った本の内容に思考の全てを支配されたり、感情的に同調した作家の著作が思考の骨格になってしまうのがオチで、また、そのような人も実際に多い気がします。そのような人はまず間違いなく大声で自説を唱え、ツイートします。思考の底が浅いと単純なワードを強調する他ないのです。近頃は科学的根拠やデータ重視で、それさえ示されれば結論の正当性を裏書きされたと思っている人が多いような気がします。しかし、科学的根拠もサーベイ・データも恣意的とまではいわなくとも、任意性を完全に排除することはできません。しかし、人が思考を深めて、長い時間をかけて積み重ねてきた英知は、それを理解しようとする人の思考を深化させます。短絡的な単細胞にならないためにもまともな本を読むようにしたほうがいいのですが、わかっている人はすでに読書習慣を身につけているはずですね。

徳井義実、沢尻エリカ、槇原敬之、東出昌大、唐田えりか、ピエール瀧等でテラハ収録!

 

今もっとも注目されている芸能人といえば東出昌大さんと唐田えりかさんだろう。TVはノイジーマイノリティをウザがってこの2人を消しつつある。なぜ注目されているこの2人を消してしまうのかというと、スポンサーが自社の商品やサービスに不倫が感染ると思っているからである。まさに日本企業らしいアホで馬鹿な認識である。企業広告というのはいかに多くの人の目に触れさせるかが最初の要件であるのに、その絶好の機会をスルーするのである。バズってナンボの昨今の現状を全く理解していない。本日は税金未納で無駄に納税したチュートリアル徳井さんの仕事復帰だそうである。復帰の仕事が生放送なのか収録なのかはわからないが、最初に放送される徳井さん出演番組の視聴率は高くなるだろう。ノイジーマイノリティのことなんぞを気にかけているといいお客さんのサイレントマジョリティを失うことは理解しているだろうに。徳井義実沢尻エリカ槇原敬之東出昌大唐田えりかピエール瀧等でテラハ収録して放送すれば高視聴率稼げるのにね。TVが消えるのも早まるね。

ゲスが社会を動かしている

槇原敬之さんの違法薬物所持での逮捕で、また「作品に罪は無い」とそちこちで議論されています。そもそも、なんで作品の販売や配信を停止するのか?なんで作品の使用を取り止めるのか?答えは簡単。クレーマーが大声をあげるからです。ツイートで使用者を攻撃するからです。使用者も販売者も配信者もウザいので停止するのです。ではなぜ、クレーマーが騒ぐのでしょうか?それは単なる妬み嫉みからです。決して、高尚な理由によって発信されたものではなく、法を犯しておきながら、作品による収益が継続されるのが許せないのです。つまり、極めて個人的なやっかみから相手の息の根を止めたいのです。社会的にも経済的にも息の根を止めたいのです。そこに犯した罪に相応する罰則を科すという「罪と人格の分離」という理知的論理はありません。故に、罪を犯した当事者以外の作品の抹殺や親族のメディア晒しにまで発展するのです。つまり、少数のクレーマーというクズ、カス、下衆、etcなんぞに企業はひれ伏しているのです。ゲスにひれ伏するのもゲスです。

無責任で思考停止の日本人

日本に哲学者はいないといわれます。いるのは外国発哲学の研究者だけだということです。実際、授業で日本初の哲学理論を広めた哲学者の名前が思い浮かびません。自分の勉強不足は棚に上げてますが。どうも思索を深めたり拡げたりする執着心というか知的忍耐力が乏しいような気がします。複雑で長大な論理体系を編み込んで張り巡らせる高度な知的思索が苦手なのでしょう。そのためか、日本の土着宗教は国外に波及していません。未来を予測する能力も一歩先までは想像できても、それ以上はお手上げなのです。日本発の技術は輸入技術の応用に過ぎないともいわれます。なんでそうなのかというと、一歩先の技術には未来を想像できますが、それ以上歩を進めた未来を想像できないのです。想像できない理由は自分の手で未来を描き作ろうとする意識や創造力が備わっていないからです。未来はよその国やよその人が作ってくれるもので、日本や日本人はその未来に合わせていけばいいということだからです。よって、未来を描く者にはでしゃばるなということになります。これが多くの才能が日本を見限って国外に出て行ってしまう所以です。イノベーションが起こらない理由もここにあります。二歩先のアイディアや技術が現状を脅かさなければ喜んで受け入れますが、それ以上のものは危険な未知のものとして怖れるのです。そのことが、日本で丸投げ文化が発展した理由でもあります。思考停止して他者にまかせっきりにするのです。責任は任せた側ではなく請け負ったお前にあるのだからというわけです。このことは選挙の投票率にも見られますし、自民党の長期支配にも繋がっています。一般の民衆は目先の生活第一で、自分を取り巻く社会をどうすればより良くなるかという想像を放棄しています。馴染みのないイデオロギーや政策を掲げる政党が支配した時の社会変革が想像の及ばぬ先にあるため恐怖を抱くのです。だから、一旦任せた政党に社会の未来を丸投げし続けているのです。結局、自分自身で論理的に導き出して選択することがないため、選択が間違っていた時の自省・反省をすることなく、批判だけは誰憚ることなくします。日本人は判官贔屓といわれます。そこにいたる経緯はそっちのけで、理屈抜きで弱者に同情する傾向があるといわれます。これと同時に強者にも同調する傾向があります。つまりこれらは表裏一体なのです。明治維新をもたらした武士階級のうち、たった二藩に属していた数名が主導した変革であったことを思い出して下さい。感情的になって京都で狼藉を働いていた志士などは殆ど百姓の次男三男だったいわれます。藩に仕える藩士などの殆どは風見鶏でした。百姓町人に至っては、公方様が幕府だろうが薩長だろうが同じことでした。それならば、狼藉をはたらかない幕府でいいとなります。難しいことはお上に任せて、庶民は日々の生活に埋没しているというメンタリティーは今も同じです。思考停止は国民性や風土病みたいなものかもしれません。

日本人は輸入品こそありがたがる

日本人は古代から輸入品をありがたがる傾向にあります。銅鏡、銅鐸や鉄器から文字、はては宗教にいたるまで輸入したものです。そのうえ、使いやすいように手を加えたり、解釈を変えたりとモディファイして日本に根付かせています。その一方で、オリジナルを日本発として世界に広めたもの皆無ではないでしょうか。最近、右翼や保守を自認する人が、メディア、書籍、SNS上で大量に発生しています。実はこの、右だの護国だのという概念も紛れもない輸入品です。遠い昔、遣唐使を国家として派遣した頃の大和朝廷は西日本の一大勢力に過ぎず、当時坂上田村麻呂による東北地方の土着勢力征伐まで至っていないという事実に鑑みれば、唐にハッタリをかましたにすぎず、一般の民にとっての国という意識は、自身が住んでいる土地の範囲を出ることはなかったと思われます。朝鮮に出兵した豊臣政権期においてさえ、出兵した大名及びその家臣にとっての国は、御家(大名家)の支配する領地でしかなかったし、その後を継いだ家康にしてもそうであったであろうと思います。幕藩体制の300年をお家の安泰のみに費やした西国諸藩は、欧米の進んだ文明利器に触れて初めて強大な力の差を思いしらされ、恐怖と共に国家を意識させられたのである。つまり、欧米の強大な武力や優れた技術と共に国家の概念を輸入したのです。外国の進歩性に畏怖し劣等感を抱くと同時に国家を意識するということは、宮台真司先生が定義する「ウヨ豚」の感情や精神性にも通じていると思います。話が逸れてしまいましたが、結局のところ、自前と思っていた国粋主義でさえ、外国の圧力で生じた恐怖の上に、輸入された国家意識を被せただけのイデオロギーに過ぎないのです。日本には悪霊でさえ神として祀る風習があります。これは、手に負えない強者には抗わず、むしろ崇め奉ってご機嫌をとっておけば脅かされることがなく平穏が維持される、という意識から生じているように思います。やくざモノの映画やドラマが持て囃されたり、ひいては国家体制の維持で米国に従順なのも、このことが起因しているような気がしてなりません。今日はアメリカのアカデミー賞授賞式です。日本から海外に活躍の場を定めたヒロ・カズさんが2度目のメイク・ヘアスタイリング賞を受賞しました。日本人は海外で評価された日本人や日本の文物も無条件にありがたがります。逆輸入も輸入品なのです。私たちは自国では価値を見出せず、稀有な才能も伸ばしてやれない社会なのです。

進歩を疎んじる現代人は江戸時代人

前回「古代から日本においてイノベーションは起こらなかった」ということを下調べなしの荒削りな乱暴さで述べましたが果たしてそうでしょうか?もしかしたら、イノベーションの発芽はあったものの、陽の目を見るまえに摘まれてしまったのではないかという可能性です。歴史とは時の為政者に都合よく脚色された記録という側面があります。為政者側は自らが布いた体制に従わない者を異端や反逆とみなします。故に、既存の制度を否定する者は即ち為政者への反逆者に他なりません。だとしたら、その反逆者が他に影響を与えないよう、その者を速やかに排除するように働きます。今の日本でも大小問わずどんな共同体であってもこの機能が働いています。このような民衆への躾はいつ頃からなのでしょうか。おそらく、稲作文化が大和政権の礎になってた時代から芽生えたのではないでしょうか。為政者たちは民衆から税を徴収します。そして、毎年の税収は増加するか安定することが重視されます。税徴収を安定的にするためには、収穫の少なかった者への補填を集団に課していたかもしれません。これが連帯性の意識を植え付けられた発端だったことでしょう。もちろん海外においても稲作文化はありましたし、麦作文化も集団生活を構成するてんでは同じルールが適用されるでしょう。でも、この狭い島国では、人間が日々の糧を得ながら生活できる土地はそう多くありません。よって、次の権力を狙うべつの地域の為政者もさほど違わぬルールを領地の民に課している可能性がありました。つまり、大陸のような文化も人種も民族も異なる為政者が戦争による交代によってそれまでと全く異なるルールを布くことはなく、この狭い日本列島ではルールに大きな変化は起こりにくかったと考えられます。それが、人と同じことを良しとし、違うことをすることを排除したり潰したりする意識を強靭にした理由ではないかと考えます。そして、江戸時代に入ってからこの意識の完成に至るのです。江戸時代の時代小説が大衆に好まれるのは通底する意識が現代と通じるからです。つまり、意識は江戸時代のままなのです。

日本はイノベーションを潰す社会

前回ブログを書いていて思いついたことがあって、今回はそれについて思いつくまま書き落とします。まず、「古代から日本においてイノベーションは起こらなかった」ということです。果たしてそうでしょうか?もしかしたら、イノベーションの発芽はあったのだが、陽の目を見るまえに潰されたのではないかという可能性です。
歴史とは為政者によって後世に伝えられた、為政者に都合の良い脚色記録という側面があります。為政者は自らが布いた体制維持のために規制の制度に従わない者を異物とみなします。故に、既存の制度を否定する者は即ち秩序を壊す異端者に他なりません。だとしたら、その異端者が他に影響を与えないよう、その者を速やかに排除するように働きます。これまでの日本では大小問わずどんな共同体であってもこの機能が働いていました。これはいつ頃からなのでしょうか。おそらく、稲作文化が大和政権の礎になってた時代から育まれた考えられます。為政者たちを支えるためには税の徴収が不可欠です。そして、徴収される税は年毎に大きな変動があっては為政者の体制は維持できません。税徴収を安定的な者にするためには、収穫の少ない者への補填をする連帯性の意識を植え付けます。ここが、 現代まで途切れることなく連綿と紡いできた意識の発端だと思います。もちろん海外においても稲作文化はあったし、麦作文化も集団生活を構成する社会ですね。でも、この狭い島国では、人間が日々の糧を得ながら生活できる土地はそう多くありません。よって、次の権力を狙うべつの地域の為政者もさほど違わぬルールを領地の民に課している可能性があります。つまり、戦争によって為政者が入れ替わってもルールに大きな変化は起こりにくいと考えられます。それが、人と同じことを良しとし、違うことをすることを排除したり潰したりする意識を強力に育んてきたと考えられます。また、この頃から内側から起こる変革は排除されますが、輸入された新規のものは進んで取り込むという性向があります。外から入ってきたものは優れたものとして無条件で評価し取り入れるのです。これも今と変わらぬ意識ですね。