無責任で思考停止の日本人

日本に哲学者はいないといわれます。いるのは外国発哲学の研究者だけだということです。実際、授業で日本初の哲学理論を広めた哲学者の名前が思い浮かびません。自分の勉強不足は棚に上げてますが。どうも思索を深めたり拡げたりする執着心というか知的忍耐力が乏しいような気がします。複雑で長大な論理体系を編み込んで張り巡らせる高度な知的思索が苦手なのでしょう。そのためか、日本の土着宗教は国外に波及していません。未来を予測する能力も一歩先までは想像できても、それ以上はお手上げなのです。日本発の技術は輸入技術の応用に過ぎないともいわれます。なんでそうなのかというと、一歩先の技術には未来を想像できますが、それ以上歩を進めた未来を想像できないのです。想像できない理由は自分の手で未来を描き作ろうとする意識や創造力が備わっていないからです。未来はよその国やよその人が作ってくれるもので、日本や日本人はその未来に合わせていけばいいということだからです。よって、未来を描く者にはでしゃばるなということになります。これが多くの才能が日本を見限って国外に出て行ってしまう所以です。イノベーションが起こらない理由もここにあります。二歩先のアイディアや技術が現状を脅かさなければ喜んで受け入れますが、それ以上のものは危険な未知のものとして怖れるのです。そのことが、日本で丸投げ文化が発展した理由でもあります。思考停止して他者にまかせっきりにするのです。責任は任せた側ではなく請け負ったお前にあるのだからというわけです。このことは選挙の投票率にも見られますし、自民党の長期支配にも繋がっています。一般の民衆は目先の生活第一で、自分を取り巻く社会をどうすればより良くなるかという想像を放棄しています。馴染みのないイデオロギーや政策を掲げる政党が支配した時の社会変革が想像の及ばぬ先にあるため恐怖を抱くのです。だから、一旦任せた政党に社会の未来を丸投げし続けているのです。結局、自分自身で論理的に導き出して選択することがないため、選択が間違っていた時の自省・反省をすることなく、批判だけは誰憚ることなくします。日本人は判官贔屓といわれます。そこにいたる経緯はそっちのけで、理屈抜きで弱者に同情する傾向があるといわれます。これと同時に強者にも同調する傾向があります。つまりこれらは表裏一体なのです。明治維新をもたらした武士階級のうち、たった二藩に属していた数名が主導した変革であったことを思い出して下さい。感情的になって京都で狼藉を働いていた志士などは殆ど百姓の次男三男だったいわれます。藩に仕える藩士などの殆どは風見鶏でした。百姓町人に至っては、公方様が幕府だろうが薩長だろうが同じことでした。それならば、狼藉をはたらかない幕府でいいとなります。難しいことはお上に任せて、庶民は日々の生活に埋没しているというメンタリティーは今も同じです。思考停止は国民性や風土病みたいなものかもしれません。